平成28年新春。海眼寺の紹介文を書きました。

新年あけましておめでとうございます。

本年もよろしくお願いします。

今の時期は境内のスイセンがきれいに咲いています。

さて、臨済宗南禅寺派の広報誌『南禅』にて、海眼寺の紹介文が掲載されています。とりたてて歴史もないお寺ですので、水害にスポットを当てて、海眼寺の歴史を概説しました。長文ではありますが、『南禅』誌は一般には配られているものではないので、ここに再録します。




海眼寺(かいげんじ)の紹介

海眼寺は京都市内から北へ一時間半、福知山市の市街地にあります。福知山のまちは織田信長の命によってこの地を平定した明智光秀が、暴れ川で名高い由良川の治水をおこなって城下を成したことに端を発し、江戸時代を通じて現在の街なみが整えられました。


さて海眼寺は、そのような由良川沿いにお寺が建ち並ぶ寺町の一画にあります。山号は「慈雲山」、本尊は釈迦如来です。開山は本寺である福知山市の醍醐寺八世・無関禅透禅師と伝わっていますが、山国の丹波福知山でなぜ「海」眼寺なのか等々、創建の詳細はまったく判然としません。


ただし江戸時代の初期、元禄年間の福知山を記した古地図には、現在とほぼ変わらない場所に海眼寺の名を確認することができます。


海眼寺の歴史のなかで唯一はっきりしていることは、海眼寺の大檀越(お寺を支える大きな檀家信者)が、福知山藩の資金繰りや金銀小判の流通を一手に引き受けた豪商・吉田三右衛門家であったということです。したがって吉田家が実質的な開基ではないかと思われます。

(山門と庫裡。山門は幕末に建立され吉田家の寄進です)


また古い過去帳を開けば呉服屋、織屋、紺屋、鍛冶屋、米屋、荒物屋といった屋号がならび、多くの檀家がその居宅を旧市街の商業地に構えています。今でも海眼寺の檀徒に専業農家は一軒もなく、福知山以外にお住まいの檀徒もほとんどが福知山の商家に、そのルーツを発します。このように海眼寺は福知山の商家とともに歴史を重ねてきました。


海眼寺の歴史は水害の歴史

海眼寺の由緒や寺史がなかなかはっきりしない理由は、海眼寺、そして福知山という街が、由良川はん濫による被害をたびたび受けてきたからにほかなりません。平成二十六年八月にも集中豪雨によって海眼寺の墓地をはじめ多くの檀家宅が水没し、高台にある檀徒の墓所が崩れるなどの被害がありました。

(平成26年8月17日水害のようす)


古く昭和二十八年の由良川決壊のさいには、三メートル以上もの大水が押し寄せ、建物の二階へ避難したのでさえままならず、当時の住職一家は本堂の屋根に飛び移って難を逃れたそうです。


福知山の市史とつき合わせると、おそらく海眼寺は創建以来十数回もの水害にみまわれています。残念ながらお寺の歴史を伝える寺宝や古文書のたぐいはことごとく流され、本堂建物もそのたびに被害を受けました。水害のことも考えて、本堂は頑丈な鉄筋コンクリート造で昭和四十三年に再建されました。現在でも頂相(最も大事な歴代住職の肖像画)や過去帳(海眼寺では過去帳は正副二部作成し、別々に保管しています)をすぐ持ち出せるように準備するのが、大雨の時期の恒例行事となっています。

(鉄筋コンクリート製の海眼寺本堂)

そのような日々の備えにもまして、自身が被災者となりながらもお寺の復旧にたびたびご尽力いただいてきた檀徒の篤信に支えられ、海眼寺は今日まで続いてきました。


熱心な檀徒講員のおかげもあって、海眼寺では独秀流詠歌講や彼岸講を長く続けておりますが、文化財になるような仏像もなければ、とりたててご紹介するような特別行事もないごく普通のお寺であります。


しかし度重なる災害や困難に心折れることなく寺と信仰を繋いできた先師先達、檀信徒先祖代々一人ひとりの歩みそのものが、何ものにも代えがたい「寺の宝」なのです。この宝をより光り輝かせ法門の興隆をはかるために、今後も精進してまいる所存です。


よろしければインターネットやスマートフォンで海眼寺のブログなどご覧ください。「海眼寺」と検索していただければご覧いただけます。

海眼寺OFFICIAL WEBSITEは https://www.kaigenji.jp/ に移転しました

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